当社の歩み History

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第1章 創業のころ 創業者 島田午八のこと
昭和62年制作「島田建設工業 85年史」をもとに再編

島田午八の生家 田建設工業の創始者 島田午八は、日本の近代化をめざす胎動の時代、 明治15年、埼玉県秩父郡尾田蒔村(現在の秩父市)に生まれた。父は久八、母はヨ子(よし)といい、午八は清重郎、毎次郎、たまの4人兄弟の末っ子であった。

幼い頃の午八は、小柄ではあるが豊かな自然の中で遊び回る腕白小僧であった。 しかし、もともと探求心の強かった午八は、尋常小学校に入学すると勉強することの楽しさを覚えはじめ、 これまで理解できなかったことが授業によって少しずつ理解できるようになると、彼の向学心は一層強くなっていった。 尋常小学校を終え、尋常高等小学校に進んだが、決して秀才というタイプではなく、努力家であり、負けずぎらいな性格であった。 人一倍努力する午八の存在は、遊び仲間の内でも自然と認められ、いつしかリーダー的存在となっていった。

「人望家であり、勉強家であり、努力家であり、新しいことは、いちはやくとり入れる、親分肌の人」と島田久作氏(牛八の甥)が回想する後年の午八の人間像は、この頃から醸成されていたのであろう。

尋常高等小学校を卒業した午八は、清重郎、毎次郎の二兄が勤務していた秩父市内の土木請負会社「山谷組(関根伊三郎氏経営)」に就職した。 入社後の午八は現場作業に従事し、土木技術の全てをたたき込まれることになるが、生来の負けず嫌いからか技術の習得に熱中していったという。 一人前の作業員として認められるには、モッコが編め、草鞋が作れなければならなかった。モッコの編み方といっても様々な種類があり、 10年ぐらいの経験が必要とされていたが、午八は5年ほどで習得してしまったという。努力家で負けず嫌いな性格が発揮されたのである。

明治35年、清重郎、毎次郎、午八の三兄弟は関口伊三郎氏から暖簾をわけられ、清重郎を代表者として、秩父郡小鹿野町に「山谷組・島田」として独立の産声をあげたのである。 当初は、小規模な経営であったが、三兄弟の技術力は既に秩父市周辺では知られており、仕事の獲得は順調であったという。 独立以後、午八は帳場(経理)や営業活動の一切を任されるようになったが、時間の都合をつけては清重郎や毎次郎の現場へ行き、 作業員と一緒になって働き、技術の研鑽につとめていたという。

日露戟争がおこった明治37年、午八は廣瀬シマと結婚、生家の近くに一戸を構えた。午八22歳、シマ19歳、ほほえましい二人の新世帯である。明治40年7月には後に2代目社長となる松一が生まれている。

結婚を契機に午八は経営の全てを任されるようになったが、清重郎、毎次郎の上にたつことを望まず、生涯代表者と名のることはなかった。 しかし、午八を経営の中心とする体制を整え、さらに社名を改めた「島田組」は、秩父地方を中心に、土木業界への漸進をはじめるのである。

代は重工業を中心とする産業革命が進み、新技術が次から次へと産みだされていた。秩父に住む午八のもとにも、 こうしたニュースが届いたことは想像にかたくない。そうしたニュースを知るにつけ、午八は安穏とはしていられなかったのであろう。 近代的経営法や新技術を求めて、しばしば浦和や東京にでかけ、大量の書籍を買い入れ、夜おそくまで勉強していたという。

この頃の島田組は、20名ほどの飯場組と20〜30名の通い組で組織されており、飯場組には群馬県や栃木県の出身者が多くいた。 当時は麦めしが一般的であったが、飯場の賄いでは三度三度いわゆる銀シャリがでていたという。また、清酒が飯場内で量り売りされていた。

道路改良工事 次に、作業の状態についてコンクリート工事を例にとって調べてみると、いかに人力中心の作業であったかがよくわかる。 水は、山の場合では渓流から竹を割って作った樋を何本も経由させて運び、平地では川から徐々に高さをあげた地点地点に溜池をつくり、 手動式か足踏み式のポンプで上へ上へと運んだという。コンクリート練りも、手動式ミキサーを数人交代で終日まわし続けた。砂利や砂は、 砂利屋、砂屋といわれる専属作業員が、川原から箱で背負いあげるという方法であった。遠方への輸送には、大八車、牛車、馬車を利用する他なかった。

露戦争以後に吹き荒れた長い不景気を耐えぬいた島田組は、大正5年頃から徐々に発展しはじめた。 しかし、午八は現状に満足することはなかった。省力化、工事の迅速化、また、高品質の資材を東京で求めるため、フォード社の1トントラックを購入したのである。 秩父周辺でも数台しかトラックが走っていなかった時代である。さらに、特筆すべきことは、 このトラックを歯車とワイヤーロープを利用して荷台を吊りあげるように改造してしまったということである。現在のダンプカーに作りかえてしまったのである。 最新技術の研究をおこたらなかった午八の成果といえよう。このトラックには、資材置場への道が狭くて走れず、 新たな道路をつくらなければならなかったという、笑えぬようなエピソードが残されている。

午八の先見性はトラックにとどまらず、現場連絡の迅速化のための自転車、営業活動の効率化のための電話、幅広い情報を得るためのラジオ等々を購入するという具合であった。 最新機器を導入して、午八はいちはやく経営の近代化を図ったのである。 こうした午八の経営手腕は、埼玉県秩父工区員出張所(現在の秩父土木事務所)や秩父近隣の町村で評判となり、仕事量の増大へと繋がっていったのである。

柏木橋 蟹沢橋にて 大正15年10月19日の小鹿野町下水溝渠新設工事は、コンクリート溝による下水渠(下水道)の総延長、両側を合わせて約2,500m、 当時県下の町村では稀にみる大工事であり、島田組の技術力をあますところなく発揮した大工事といっていいであろう。 また、この年埼玉県下では最初のコンクリート・アーチ橋、柏木橋(小鹿野町)を完成させている。 そのアーチは現在でも芸術的ともいえる美しさを誇っている。 不景気のなかにあって、島田組の仕事は隆盛をきわめていたが、蟹沢橋(皆野町)を完成した昭和8年、日本は国際連盟を脱退、戦争への道を突き進んでゆくのである。 島田組の経営は、午八の手腕、技術力の高さ、工事実績により安定はしていたが、常に先の時代をみる午八の胸中は暗澹たる思いであったろう。

昭和10年、午八は長男松一に経営の全てを託し、療養生活を送っていた。持病の胃の疾患が次第に悪化していたのである。 激しく揺れ動く時代のなか、静かに書や尺八に親しむ午八は、島田組の将来に、どんな思いを馳せていたのであろうか。

昭和12年2月22日、病にわかにあらたまり、島田午八は56歳の奮闘の生涯を閉じたのである。

昭和62年制作「島田建設工業 85年史」より
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